志喜屋日記 寺社仏閣

おぶつだんの志喜屋

【営業時間】10:00〜18:00
【定休日】木曜(祝日除く)、年末年始

志喜屋日記

寺社仏閣

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お早う御座います。

最近、暑いですね。梅雨で雨が降ると言う予報なのに、曇りどまりでなかなか雨の降らない梅雨ですね。

 私が休みの日で寺院参拝する日は大概が雨なんですが・・・?



 さて、清荒神の日記です。
ここは昔ながらと言うか、日本特有の信仰と言うか、神仏融合の象徴とも言うべき寺院です。

 先ずは下記、寺院詳細です。

清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の寺院(大本山)。摂津国八十八箇所第72番。

896年(寛平8年)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられた。本尊は大日如来。鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称がある。

本尊は大日如来で、国の重要文化財に指定されている。

山内には画家富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館が1975年に設立された。

【帰依三宝】・・・清荒神・清澄寺の象徴です。

 上記でも書きましたが、神仏融合の象徴的寺院なので、神社の敷地でも寺院の敷地でも二拍の手を打つ音が聞こえます。

私には違和感がありましたが、ここでは殆どの皆様がされてたので、普通?なのかもしれませんね?

 まぁ手を打とうが打つまいが、参拝し手を合わせると言う行為自体が尊い行いなのだから、この際作法は度外視しなければいけないのかも知れませんね?


 清荒神編、まだまだ続きます。

皆様、お早う御座います。
昨日は多くのアクセス有難う御座います。そんな時に限って、個人の日記を書いてしまった・・・。申し訳御座いません。



 さて、今回からは清荒神をスタート致します。
正式名称は題の通り?です。
(参照:十八本山巡拝案内記より)

 最終的には寺院専用の道になり、大きな無料駐車場があります。

 参道には屋台が出てて、何となくテンションがUPする感じでした。

何時もの?様に詳細は次回の日記に致します。

私の地元からは近くて遠い感じです。

高速道路に乗れば、60分程度で到着するのですが、遠出としては近い。何処か軽くドライブとしては遠い。

 まぁそんな感じで、兵庫方面はあまり来るまで行く事は少ないですかねぇ。

年末の須磨寺参拝を機に、やっと念願の清荒神・中山寺の参拝を終え、個人的には真言宗十八本山巡拝が成満致しました。

 ふと、二年前に善通寺を参拝してから長い月日を重ね、二年越しで成満。

 近い内に第二回を開始する予定です。


次は、軸(まくり)を持参で挑みます。

こんにちは〜

本日は豪雨の中、吹田市と茨木市のお客様宅に配達に行ってました。


どちらも往復に60分以上かかる遠い場所でした。


しかし、逆に言えば、そんな遠い場所からお買い求め頂けると言うのは有り難い事ですよね。

って事で、先程店に帰って来ました。

急いでマクド(マクドナルド)を食べました。

さて、南禅寺最終回です。

基本的には前回の日記で記入は終わってるので、写真を見てもらうだけです・・・。

 ここは南禅寺の敷地でも一番奥の辺りです。

お寺と言う感じでは無い光景が出てくるので、行けば直ぐに判ると思います。

水は凄く綺麗でした。

イメージ的には琵琶湖から京都・大阪に流れるのかなぁ〜と思いますが、流れの方向的には、何故か琵琶湖方面に向かって流れてる様な感じでした。

何故????


 南禅寺に行かれるなら、近くの永観堂の見返り阿弥陀様をハシゴされるのをお薦め致します。
・・・って私は行きませんでしたが。

南禅寺専用駐車場に停めて南禅寺・永観堂と参拝するのがベスト!!だと思います。

午前中に二ヶ寺共に参拝を済ませたのなら、是非『奥丹』にて昼食をとると良いと思います。

『奥丹』は湯豆腐の老舗で、全国的にも有名です。まぁこの辺りには、他にも有名な湯豆腐屋さんはありますが・・・。


凄く美味しいですよ。
今のシーズン、夏なんで暑いやん!?って方も沢山居られるでしょうが、夏にあえて湯豆腐ってのも乙ですよね〜

まぁ一人前3,500円位は必要だとは思いますが。

でも、美味しいですよ。

私は、清水寺店の方には良く食べに行きます。

って、最後は奥丹の宣伝になってしまいましたが、南禅寺最終回、これにて終わりです。


次回からは清荒神編、又は中山寺編を開始致します。

どちらになるかは、その時に決めます。

では、次回も、いやいや、これからも宜しくお願い致します。


疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1881年に始まり、1890年に竣工した。

 疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,潅漑用水,防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され,91年には送電を開始した。また水力発電の増強と水道用水確保のため,1908年に第2疎水の工事が、始まり、1812年に完成している。同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。

 赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしさになじんで、今では一種の美を湛えている。疏水の下をくぐると、南禅寺発祥の地である南禅院にでる。

南禅寺HPより抜粋しました。


 次回、南禅寺D(疏水の景色)にて、大好評??南禅寺編を終わり、清荒神編を開始致します。

 其方もご期待下さい。

お早う御座います。




では、南禅寺の続きです・・・・



ここは、法堂です。恐らく他宗で言うと本堂でしょうか?


雨が降ったり止んだりでしたが、この写真は少し晴れた時です。

まぁこの後、バケツをひっくり返した様な雨に見舞われましたが・・・。

禅宗なんで、本尊は釈迦如来です。

釈迦三尊ですかね?、写真は。

法堂内には入れませんでした。

外から写真を撮ってます。

一応、撮影禁止の看板が出てないのを確認したので大丈夫とは思います。

修学旅行生や参拝の方々は写真撮って良いんかなぁ〜?見たいな感じでしたが、私は確認後にお構いなく写真を撮りました。

そうすると、皆が、ああ〜撮っても良いんやぁ〜って感じに一斉に写真を撮り出しました。

何となく日本人やなぁ〜って思いました。
(まぁ外人さんも居ましたが)

禅宗の本堂の天井部分には龍が描かれてる事があります。

有名なのが八双睨みですかね。
何処に行っても睨まれてる様に龍の目が追って来るように描かれてるんですよね〜

鎌倉五山の建長寺、京都嵐山の天龍寺等に描かれてたと思います(多分)。


禅宗系の寺院は本堂内に入って仏様を礼拝すると言うよりは、庭園や景色を味わう感じです。

敷地全体が一つの絵画の様に作られてるのが特徴でしょうか。

私は、どっちかと言えば、仏像や建物内部も物が好きなので、少し寂しいです。


でも、ここは寺院敷地内が凄い事になってます。

何と水流が流れてるんですよ。

琵琶湖水流です。


・・・それは、次回で・・・。

南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。京都五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇る。また皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものである。

南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)[1]に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(剃髪して仏門に入る)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾(えんに)に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。

開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師、1261 - 1313)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。

建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を京都五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために[2]南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけた。

室町時代には旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出している。

明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失してたがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)、応仁の乱の市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。

南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗寺院の元締めにあたる役職である。

なお南禅寺境内は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されている。

勅使門
寛永18年(1641年)、御所の日ノ御門を移築したものという。

三門三門
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐く「南禅寺山門」がこれである。ただしそれは創作上の話で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
法堂(はっとう)
明治28年(1895年)にこたつの火の不始末で焼失した後、明治42年(1909年)に再建されたもの。

方丈方丈
国宝。大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、柳の間・麝香の間・御昼の間・花鳥の間(西の間)・鶴の間・鳴滝の間の各間にある襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、建物の移築に際して襖の配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている。名勝に指定されている方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」の通称がある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

この写真三枚は山門を上がって撮りました。
階段も急で登り難いですが、景色は絶景です。
年配の方は苦労しながら登ってました。

まだまだ、南禅寺編は続きます。

皆様お待たせ致しました〜

お待たせの?

 『南禅寺』編を始めます。


 南禅寺は銀閣寺の帰りに寄りました。

銀閣寺参拝と同じく雨でしたが、ここでもやはり修学旅行生が多かったです。

雨なのに元気でした。

南禅寺の詳細は次回日記で書きます。

近くに、永観堂があり、『見返り阿弥陀』を見に行きたかったのですが、イマイチ場所が判らなくて行けませんでした。

やはり、カーナビが要りますね。

って事で、この次の日に買いました。

近くに、湯豆腐の奥丹もあり、ここにも行きたかったのですが、同じく判りませんでした。

 南禅寺は敷地も広く、何と言っても、石川五右衛門の「絶景かな〜×2」で有名な三門に上がれると言う特典付き。
勿論、拝観料は要りますが・・・。

 確かに「絶景」でした。

銀閣寺、最終回です。

日記更新が遅くなり、申し訳御座いませんでした。

色々と忙しくて・・・。

しかも、お盆の準備等々で店舗の模様替え、HPの金額変更・・・・


今月中に銀閣寺・南禅寺編を紹介したかったのですが、無理でした。

と言うわけで、次回からは『南禅寺』編に変わります。

南禅寺は色々と楽しかったので、日記は多くなるかも・・・?です。

ただ、やはり店舗の人間なもんで、お客様が来店されたり、急に忙しくなったり、配達が入ったり、予定通りいかないもんなんですよ〜

サクサクと日記更新出来れば良いですが。

最近は多くの皆様に喜んで頂けてる?様で、アクセス数も過去最高に達っする寸前なんですよ。

銀閣寺は、今まで行った禅宗の寺院と良く似てる造りです。

鎌倉五山・京都五山、建長寺・建仁寺・天龍寺、等々。

やはり、宗派によっては、ある程度決まった造りがあるんでしょうかね〜?

後、二年後位に銀閣の修復が終了します。

その時は又、綺麗になった銀閣寺を参拝したいです。

何だかんだ言って、下調べをしないで向かったんです。


銀閣寺のHPを調べたら直ぐに判ったのに・・・


写真見ると判るでしょ?

そうなんです!!!

現在、改装中で・・・・。

二年半位かかるみたいです。


でもまぁ、逆にこんな裸の銀閣寺を見る事って今後は無いかも知れません。

かえって良かったのかも?

改装が終わり、綺麗な銀閣寺は二年後辺りに見れますしね。

イメージとしては、金閣寺の様な感じと思いましたが、少し趣が違いました。

まぁ同じ禅宗なんで、形式や庭園の様子等の基本は同じですが。

って事で、次回の銀閣寺内、敷地案内日記で銀閣寺編は終わります。


その後は・・・

  南禅寺編に突入致します。

 ご期待下さい!

慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院(相国寺の境外塔頭)。

正式名は東山慈照寺。一般には銀閣寺(ぎんかくじ)の名で知られる。山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。(夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。)

足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。

なお、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていないが、全体に黒漆が塗られていたと考えられている[1]。

平成20年2月から2年間の予定で修理中であり、銀閣そのものは見られない。 (平成20年5月現在、骨組みと、屋根の見本は見られる)

室町幕府8代将軍足利義政(1436 - 1490)は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。

当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。

1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。

戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年3月29日には庭園が 特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。

銀閣寺垣
慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は銀閣寺垣(ぎんかくじがき)と呼ばれている。
庭園(特別史跡・特別名勝)
錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われていると言われる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。なお、東方山麓の枯山水庭園は1931年(昭和6年)に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている。
東求堂(とうぐどう)(国宝)
義政の持仏堂で、1486年(文明18年)の建立である。東求堂の名は横川景三の撰による。池に面して建てられ、大きさは3間半四方。正面左は方2間の仏間、右奥は義政の書斎(同仁斎とよばれる)である。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構である。なお、創建当時は現在位置より南方の銀閣に近い位置に建てられていたと推定されている。
銀閣(国宝)
銀閣は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿のことで、義政の祖父・3代将軍義満が建てた金閣と対比されて用いられる通称である。1489年(延徳元年)に上棟されたことがわかっており、同年をさほど隔てない頃に完成したと思われる。重層、宝形造、杮(こけら)葺で、平面は長方形で正面8.2m、奥行7.0m。初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は方3間(柱間の数が正面・側面とも3つ)の禅宗様(唐様)の仏堂である。書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。
鹿苑寺金閣が文字どおり金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔を貼った痕跡はない(2007年1月5日には科学的調査によって銀箔が全く検出されなかったことが発表された)。慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が茶道趣味と禅宗文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高い。「当初は名前のとおり銀を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説もあるが、俗説に過ぎない。ちなみに、義政の妻日野富子はびた一文たりとも出さなかったという話がある。
金閣、飛雲閣(西本願寺境内)と併せて『京の三閣』と呼ばれる。

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