志喜屋日記 寺社仏閣

おぶつだんの志喜屋

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志喜屋日記

寺社仏閣

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皆さん、お早う御座います。

もう少し早い日記更新を予定してましたが、案の定遅れてしまいました。

 以前は寺社仏閣の写真ストックが無くなりそうで困っておりましたが、今回は早く更新しないと、忘れてしまうくらい残ってます。

 本当にマズイ状況になりました・・・。

では、早速ですが続きです。

 神仏霊場(和歌山)11番

慈尊院の総門を入ると桜の古木におおわれた高い石段が仰がれる。途中百八十町石を右に見て、石造大鳥居をくぐり百十九段の石段をのぼりきると大きな丹塗りの鳥居の建つ広庭から拝殿を通して拝観する極彩色の神殿は森の緑にはえて美しい。境内は高燥で清々しく春の桜、秋のもみじに参詣者も多く紀ノ川・和泉山脈が一望のうちに眺められ、また、高野山町石道の登山口として広く知られています。高野山登山は、当神社にて登山の奉告と道中の安全を祈願しましょう。

和歌山県では、当神社を含め高野・熊野等を世界遺産に登録され、話題になっております。世界の顕著な普遍的価値を有する遺跡、建造物や自然などを保護・保全し、人類にとってかけがえのない共通の財産として未来に遺していくを目的とするもので、全力で取り組んでおります。

弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社であります。高野山登山は、当神社にて登山の奉告と道中の安全を祈願しましょう。
空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出で立ち各地を行脚され途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。
猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。此の処は実に天下無双の霊地であり、空海は、此の処を教えくださった猟師は、神さまが姿を猟師に現し狩場明神となり神託として一山を与え下さったものであると想念の内に感得されたのでした。狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。仏教・真言密教の布教の基となった狩場明神との運命的な出会い。空海はその思いを政所として慈尊院を開いたとき、参道中央正面上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称されました。空海によって創建鎮座爾来、御社号も丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受け官省符荘(荘園)の総社として栄えました。紀伊名所図絵(天保年間)では、数多くの御社殿等が立ち並び荘厳を極めていましたが明治維新後、神仏判然令(神仏分離令)等により多くの建物は取り除かれ、天文十年(1541=室町時代)に再建された本殿の内、三棟(国指定重要文化財)が往年の姿をとどめ今日に至っています。

本サイト説明より

皆さん、こんにちは。

もう早いですね。六月ですよ。既に半年が過ぎようとしてるんですね。

先日、連休を頂きまして、善光寺に参拝して参りました。

7年(6年)に一度の御前立本尊開帳の年だったので。

 善光寺・北向観音・安楽寺・元善光寺の四ヶ寺に参拝しました。

 忙しくて日記が更新出来ず、参拝寺院がドンドン増えて来ました。

頑張って更新せねば!!

 さて、今回は丹生神社です。
スイマセン。私、大きな勘違いをしておりまして、丹生都比売神社と勘違いしておりました。

 今回は丹生官省符神社、慈尊院丹生神社になります。



では、

 慈尊院の境内を抜けると、長そうな階段が現れます。

丁度、多宝塔の前になります。

 『う〜ん?気になる。』

 『でも、先が見えない。判らない。』

 『ここを登って、更に階段とかだったら、アウトやん?』

 『どうしよう?行く?やめる?』

 そんな葛藤を繰り返しながら、決心して登り出しました。

 まぁ、運動不足なんで、階段が短くても疲れるんですけどね。

 直ぐに目的地に着きました。

私が神社に参拝するのは結構目面しいです。

 何と無くですが、神社は同じ様に見えます。

 造りや雰囲気・イメージ左程の代わり映えが無いと言うか・・・。

まぁそんな事を言えば、お寺も知らない方達にしらた同じか・・・。

9:1の割合で行く位でしょうか?

 次回は判る限りの丹生官省符神社の説明を致します。

皆さん、こんにちは。

今月は最後の日記になります。

明日から遅いGWを頂き、長野県の善光寺へお参りに行こうと思います。

 丁度、今月いっぱいが開帳の期間なので土日を利用して安い高速道路料金で行きたいと思います。

 今月の始めに行かれたお客様と話してたのですが、高速道路が安くなったので、特に土日が混む様です。
お客様はツアーで行かれたのですが、開帳の順番待ちをしていたら集合時間遅れるので、開帳に参加出来なかったとの事。

って事は、早朝に済ませるか、泊まりの予定なので、閉館ギリギリにお参りして並ぶか・・・ですかね?

 次に開帳されるのは6年後なんで、何としても行きたいと思います。


 さて、余談が長過ぎましたが、慈尊院遍の続きです。

前回の日記に書きましたが、【ゴン】と言うワンちゃんが参拝のお手伝いをしていたんですね。

平成4年まで続け、平成14年に亡くなった様ですね。
流石に平成4年は高校生でしたが、引退後の平成14年までなら、付近をウロウロしている高野山大学生だったので、参拝したら会えたのに・・・。

 なんせ、今回の参拝が初なんですよね。

残念です。

慈尊院の大塔前から階段があり、上には丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)があります。
 ここも高野山とは縁のある場所です。
『※間違えてました・・・。
ここは丹生官省符神社(慈尊院丹生神社)でした。上記はもう少し山手の神社です。
誠に申し訳御座いません。』

次回は少ない情報では御座いますが、この神社の日記を書こうかと思います。

 この日は天気が良く、景色も最高でした。
空気も勿論美味しいですしね。

 もっと早く参拝しておけば良かった。

皆さん、こんにちは。

昨日、今日と連続で日記を書きました!

って、日記って本当はそれが当たり前なんですけど・・・。

 今日も本当は忙しくて・・・・。

昼ご飯を食べてません。

既に夕方なんで今更食べれません。

夕飯が食べれなくなるので。
しかも、感覚が可笑しくなってるのか、特にお腹が空いてる訳でもないので。

 お昼から今までが一瞬で過ぎ去った気分です。


 さて、慈尊院遍、続きです。

【国宝】
木造弥勒仏坐像
如来形の弥勒仏の像で、像高は91cm。右手を挙げ(施無畏印)、左手を膝上に置く(与願印)如来像通有の印を結ぶ。下ぶくれの頭部、重々しい面相、量感のある体躯表現、大ぶりに刻まれた翻波式衣文(ほんぱしきえもん、大波と小波を交互に刻む様式)などに平安時代初期彫刻の特色が現れている。組んだ両脚の前の裳先部分に寛平4年(892年)の墨書がある。この裳先部分は後補であるが、墨書はオリジナルの銘文を忠実に写したものと認められ、寛平4年の作であると認められている。在銘作品の少ない平安前期彫刻の基準作として重要である。長年秘仏として伝えられてきたため、光背、台座も当初のものが残されている。厳重な秘仏であったため、学術調査が実施されたのは第二次世界大戦後のことであり、昭和37年(1962年)に重要文化財、翌昭和38年(1963年)に国宝に指定された。開扉は21年に一度とされている(空海の命日が21日であることにちなむ)。

【重要文化財】
弥勒堂(附:石造露盤宝珠1組、棟札17枚) - 鎌倉時代後期の建築。宝形造、檜皮葺き。
絹本著色弥勒菩薩像

【高野山の案内犬ゴン】
弘法大師像と案内犬ゴンの碑昭和60年代(1985年 - 1988年)に、九度山駅と慈尊院を結ぶ途中にある丹生橋の近くに住みついていた紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬が、やがて慈尊院や高野山の参詣者・ハイキング客を案内するようになった。

慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、いつしかこの野良犬は「ゴン」と呼ばれるようになった。

最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を案内するだけだったが、平成元年(1989年)頃から慈尊院をネグラとして、高野山町石道の20km強の道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻る毎日を送っていた。

しかし長く険しい山道を連日のように歩き続けたため、体力的・年齢的にも相当の負担がかかったようで、平成4年(1992年)をもってガイド犬を引退し、その後老衰のため、平成14年(2002年)6月5日午後3時50分に息を引き取った。

約1200年前の弘法大師の時代にも高野山の案内犬がいたという伝説があり(金剛峯寺#開創伝承も参照)、このゴンは「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」などと呼ばれ親しまれていたこともあって、同年7月23日に慈尊院住職の計らいで境内の弘法大師像の横に、ゴンの石像が載せられた「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられた。

現在、慈尊院には、晩年のゴンと共に暮らした雄犬「カイ」が居るものの、ガイドは行っていない。

ええ〜、皆様こんにちは。

スイマセン。更新が出来なくて・・・。

更新してないにも関わらず、沢山の方アクセス、誠に有難う御座います。

 感謝感謝です。

 毎回の言い訳に使ってますが、本当に忙しくて・・・。

 先週は一日平均12時間の労働をしておりました。
今週からは落ち着きましたが、いい歳なんで、疲れが思う様に取れません・・・。

 本日も帰宅後に接骨院に行きます・・・。

 さて、やっとの慈尊院の続きです。

慈尊院(じそんいん)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある高野山真言宗の寺院。山号は万年山。仏塔古寺十八尊第6番。

2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されました。

弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした。

高齢となった玉依御前(空海の母)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。

空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。

空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。

空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。

皆様、お早う御座います。

凄く久し振りの日記の更新になります。

全く更新をしておりませんでした・・・。

誠に申し訳ないです。

 超忙しいんです。

まぁ、色々とですけど・・・・

それにも関わらず、毎日一定のアクセス以上を超えており、感謝致しております。

4/15でしたかね。高野山に上って来ました。
丁度、夜に旧正御影供法要が御座いまして、一年に一度だけ数時間ですが、高野山の伽藍内・御影堂に入ることが許されます。

 そのイベントに参加してました。

もう、若くないので疲れました。

終わったの夜の10時越えてからですからね〜

帰宅はギリギリ、その日中です。

そんな訳で、お昼は高野山の入り口にある慈尊院を参拝致しました。

学生時代は前の道を毎日?とおってましたが、全く気付かず・・・と言うか、興味が無く素通りでした。

 面白いもんですね。

木を見て、森を見ず。って感じですか?
ちょっと違いますね。

でも、本当に良い機会でした。

参拝して良かったです。

 場所はちょっと難しいですね。

私もナビで行きましたが、小さな道を指示されて、最後の方は向こうから車が来たら交わせない位の細い道を案内されました。

しかし、大きな道から一本で行く事も出来ます。
だって、ツアーバスが何台も入っては出、出ては入ってを繰り返してますから。

駐車場は無料です。

参拝に関しても、境内をウロウロするのは無料です。・・・うん?有料の場所ってあったかな・・・?

慈尊院に付いての詳細は次回と言う事で。

 出来るだけ早急に日記更新を致します。


追伸:寺院用の仏像修復例をHPに載せております。
今回の仕事は全て京都にて行いました。
仏師・塗師・彩色師共に京都です。
塗師は伝統工芸師です。よくよく聞くと、仏師も登録が面倒で申請してないだけで、実は伝統工芸の資格は満たしているそうです。
京都物での修理なら自信ありますよ。勿論、それなりの値段になりますが。
その次は名古屋物ですかねぇ。
最近は名古屋物が多い様です。まぁ値段が違いますからね。
京都物は高いです・・・。

皆さん、お早う御座います。

と言いつつ、書き終わる頃にはお昼になってると思いますが・・・。

 ここ最近は、また日記の更新が疎かになっております。

 仕事でも忙しいのですが、先週は個人的な用事等もありまして、高野山方面に居てました。

 その分、写真も撮って来ましたので、今後載せますので、ご期待下さい。

 では、毘沙門堂編です。

天気も良く、桜も見所の時期だっただけに、堂内も沢山の人で賑わっておりました。

 入って直ぐが毘沙門堂(本堂)です。

その脇から、ずっと寺院内を探索致します。

 堂内から外に向かって見る桜。
流石、綺麗でした。

中には井戸があり、【閼伽井】と言うのでしょうか?

 密教行者が何か習得する儀式の時等に汲んで使う、神聖な井戸ですね。

 天台・真言系の寺院で目にします。

ただ、末寺は無いので、専用の灌頂の儀式が可能な総本山・別格本山・大本山等の大きな寺院に限るんでしょうが・・・。

 私も、高野山の壇上伽藍内の閼伽井より水を汲み、灌頂に取り組んだ事が御座いますので、なにやら懐かしい気分になります。

以前、同じ京都の神護寺に参拝した時にも見掛けました。

 さて、毘沙門堂は今回で終わりです。

次回は、本願寺(お西)、慈尊院、高野山を予定しております。

 今後も、期待して下さいね。

連続日記です。

今日は天気が悪く、気分が優れない?ので、綺麗な桜を見て元気になろう!

と、言う訳で、【晴天に満開の桜】を載せますね。

勉強不足で知らなかったのですが、桜で有名な場所だったんですね。

 沢山の観光客で賑わっておりました。

この日は本当に天気が良く、少し強めに吹く風が心地よい位でした。

そんな風に乗り舞い散る桜はサイコ−!

格好良い、桜吹雪ですね。

 こりゃ参った。

そんな景色の中に居て、気持ち良かったです。

 又、来年に会いたいと思いました。

毘沙門堂編は、続きますよ〜

みなさん、こんにちは。
今日は、昨日までの晴天と心地良い温かさがウソの様な、激しい雨と寒さ。

 体調管理には充分注意して下さいね。

桜は散りましたが、次回も桜満開日記を書かせて頂きますよ〜

今回は、歴史のお勉強です。

 では、毘沙門堂の続きです。

 毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。

寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。

 建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 - 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 - 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 - 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。

皆様、こんにちは。
この数日間は天気が凄く良いですね。
本当に雲一つ無い晴天が三日間続いてます。

その分、空気が乾燥してるんでしょうね。
乾燥注意報や火事のニュースを耳にします。

 火の元には充分注意して下さいね。

昨日は、お休みを頂きました。
流石に13連勤は疲れます。
私も結構なオッサンなんで体に影響が・・・。

 まぁリフレッシュも兼ねて京都散策に行って参りました。


今回は、京都市山科区の毘沙門堂です。

 近くで大変お世話になっております寺院の御住職からの勧めで、凄く綺麗な毘沙門天像があるから見に行っておいで。

 とのお薦めだったので、興味津々で向かいました。

 その情報だけを頼りに行ったのですが、大変な事になりました。

 知る人ぞ知る?桜の有名な寺院だったのですね?

車で向かいましたが、最後は道路は狭くなるわ、対向車は多いわ、歩行者優先で気を付けなくてはダメだわ、困りました。

 付けば観光客で凄く賑わっておりました。

駐車場も無料で、良心的でした。


一番に目を引くのが枝垂桜。

天気が良く、桜も満開で、時折吹く風により起こる、桜吹雪。

 真っ青な晴天に舞う桜吹雪

凄く綺麗でした。

 毘沙門堂は、写真を沢山撮りました。

パートE位まで行くでしょう!!

だって、寺院の写真のストックが無いんです・・・。

寺院参拝が出来てないので・・・。

だから、一ヶ寺毎に撮り納めないと、次が怖い・・・。

 詳細は後日載せます。

 毘沙門堂編、まだまだ続きます!

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