南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。京都五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇る。また皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものである。

南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)[1]に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(剃髪して仏門に入る)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾(えんに)に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。

開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師、1261 - 1313)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。

建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を京都五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために[2]南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけた。

室町時代には旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出している。

明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失してたがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)、応仁の乱の市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。

南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗寺院の元締めにあたる役職である。

なお南禅寺境内は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されている。

勅使門
寛永18年(1641年)、御所の日ノ御門を移築したものという。

三門三門
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐く「南禅寺山門」がこれである。ただしそれは創作上の話で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
法堂(はっとう)
明治28年(1895年)にこたつの火の不始末で焼失した後、明治42年(1909年)に再建されたもの。

方丈方丈
国宝。大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、柳の間・麝香の間・御昼の間・花鳥の間(西の間)・鶴の間・鳴滝の間の各間にある襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、建物の移築に際して襖の配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている。名勝に指定されている方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」の通称がある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

この写真三枚は山門を上がって撮りました。
階段も急で登り難いですが、景色は絶景です。
年配の方は苦労しながら登ってました。

まだまだ、南禅寺編は続きます。